クリスマス・キャロルが終わりました。
正直な思いを書かせて頂きます。
今回の公演に関しては、死力を尽くしましたが、どうしようもない部分がいくつかありました。
ここにはあまりかけませんが、病気や、事故や、様々な要因が絡んで、正直なところ何とか公演を終わらせるだけで、精一杯だろうと踏んでいました。
パンフの私のコメントを考えることすら、出来ないほどくたくたで、私は主演で、大量の台詞量があるというのに、自分の稽古はほとんどすることが出来ませんでした。
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今回のクリスマス・キャロルに関しては、私にとっての、テーマがありました。
それはいつもなら、パンフに書いたりもするのですが、今回は記載する力が私に無くて、ここに書きます。
それは「神」という存在との対峙でした。
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人は何か人生で辛い時、神頼みをすることがあるのではないでしょうか。
少なくとも私は、そうです。
といっても、私は実家は浄土真宗ですが、私自身はほとんど無宗教と言っても良いところで、
そういう時私は八百万の神様に頼む癖があります。
手を組んでは主に祈り、手を合わせては仏に祈り、肩を組んでは友を思うような祈りのくせが私にはあるのですが、
「それをしてどうなる?」という疑問に昨今は支配されていました。
今現在の世界の紛争の多くは、宗教に起因しているように思います。
それについて深く語ろうとは思いません、ですが、神様は何をしているのだろう? という思いが、私にはありました。
黒人の公民権運動を率いたマーチン・ルーサー・キングJrは、キリスト教の牧師ですが、黒人差別のあまりの酷さに、教会の一室に引きこもり「もしも神がおられるなら、出て来て私を導いてください」と願ったという話を、思い出します。
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クリスマス・キャロルという物語、ひいてはクリスマスは、キリストの生誕を祝うものです。
登場する三人の精霊は、東方の三賢者ですし、ティム坊やはキリストの具現化でしょう。
そしてクリスマスが何の得にもならないと嘲るスクルージは、現代の人間そのものです。
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私ははじめ、どうしてもスクルージに共感してしまって、仕方がなかったです。
小さい頃大変貧しく、厳しい親元で育ち、そのせいで心が捻くれ、恋人にも捨てられ、金を失うことを恐れて生きる。
それは、悪いことではなくて、寂しいことだと思いました。
けれど生きるという事は、寂しさに満たされるという事だと私は思っています。
スクルージが改心した後、ト書きには「善への熱い思いに打ち震え」という言葉がありますが、善を為すことは、生きることに必要な条件ではないと私は思っています。
生きることは、それだけで戦いです。
そして満たされないものです。その孤独を抱えながら、ただ他人様に大きな迷惑をかけずに生きるだけでも、相当に大したものです。
本当に善を為す必要があるのか、そういうことが、私の神への、主へのアンチテーゼでした。
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「真実は、自分が良くわかっている。」
それが拙著サラという作品を書いた時に、エヴァという宗教を盲信していた登場人物が得た気付きですが、
今回スクルージを演じて、神に善の道を歩む意味を問いかけ、私が得た答えは、真実でした。
私が得た真実は「善を歩みたい、歩みたいのだ。」ということでした。
そして「善を歩むとき、必ず救いはあるのだ。」という事でした。
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舞台の幕が開けて、3日目ぐらいに、いつもお手伝いに来てくださっていた劇団ぶんちゃ王国の小野村さんが私におっしゃったことを記憶しています。
「(芝居の出来が酷くて最初は私も青ざめましたが)正しい生き方をすれば必ず報われるんですね。」
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舞台でスクルージを演じていた時、私が強く感じたのは、「善への圧倒的敗北」でした。
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孤独であること、孤高であることは、かっこいいです。
それでもやっぱり私は、誰かの為に生きたいのだな、と思いました。
それがやっぱり生きるという充実感になるのだと、私は思いました。
誰かを楽しませる為なら、死んでもいいんだな、と体感しました。
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もちろん、生きることは大変ですから、孤独の中にこもることもあると思います。
それでも私は誰かと右往左往しながら、迷惑をかけ、かけられながら、それでもお客様を楽しませたい、世界を良くしたい、その為に死力を尽くしたいと思いました。
その為の私の戦場であり、私の故郷であり、私の魂そのものが、この虹創旅団です。
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夢から醒める時に見た、Eサスと呼んでいた光は一生忘れません。
ご来場いただいた皆様、応援して下さったお客様、関係者の皆様、本当にありがとうございました。
どうぞ楽しいクリスマスと、良いお年をお過ごしください。
最後はティム坊やの言葉でしめたいと思います。
どうか世界中のみーんなが、幸せでありますように。
虹創旅団・団長 田中円